ヒメコ物語


人は生まれ、人は死ぬ。
犬もまた同じ。生きとし生けるものの定め。違いは生き抜く速度、駆け抜けるスピード。
犬は人の10倍の速さで生き、そして旅立っていく・・・。犬との暮らしの喜怒哀楽もまた、世のいろいろな価値の中で10倍のパワーを秘めている、と私は感じる。これまで10頭前後の犬との出遭いと別れを味わってきた。そのすべてに大切な思い出の物語があるが、秋の終りにまさに文字通り突然、違う世界へ立った川又姫子、通称ヒメコとの暮らしは、我が生涯で、けして忘れられない至福の思い出の犬と思う。
我が命に息吹を与え、想像だにしたことなき大震災と原発事故を経験し、椎間板ヘルニア・車いすリハビリから自力歩行に戻る奇跡もやり遂げ、我が心のふるさと原風景をともに歩いた感動を共有したヒメコ・・・。
 亡くなってまもなく3カ月。彼女の冥福を祈るために、ヒメコとの出会いと別れを書いておきたい。合掌。

(車いすのヒメコと登った奥久慈・北富田地区に一人旅行く朝、2013・2・17執筆スタート)

<ヒメコとの出遭いの予兆>
 今からちょうど十年前、2003年のことである。我が街常陸太田地区は72年ぶりの大賑わいの中にあった。平安の昔から1200年続く荘厳な神と自然の行事、金砂神社大祭礼開催の年だからだ。我が国が海に囲まれた常世の国、神の国であることから行われることだと思うが、採取した海の水を山の神に捧げ、五穀豊穣や天下泰平を願う伝統行事。近年、我が国で最も古い地層が発見された阿武隈・八溝山系に位置する茨城県北の5つの山、常陸五山の神社で共通に行われている神事だが、ヒメコとの出会いはまさに、この金砂神社磯出大祭礼と関わりがあった・・・(つづく)

<三匹の別れ>
2003年春、10日間にわたって繰り広げられた平安絵巻・金砂神社大祭礼。


(興味ある方、詳しくは下記で読んで下さい)

金砂大祭礼のロマン
2003春・金砂磯出大祭礼記念講演会詳報
茨城新聞掲載記事
古川和男氏寄稿「原子力OB・核エネルギーを語る」



 この年一年で私は3匹の愛犬を失い、別れた。
まずボブ。知人から頂いたシェルティー。真夏の激しい雷雨の日に飛び出し、どこへ行ったか帰らぬ心配の日が続き、3日目の朝、張り紙情報に基づいて辿りついた里川沿いの24軒目の車の下にいた彼を発見、それ以来、リードを外しても私の周り数メートル以内から絶対に離れない用心深い習性になって、可愛かったボブ。その彼が3月、大祭礼を新たな視点から盛り上げる記念講演会の企画準備中に亡くなった。それまで元気だったのにある日突然に急に弱ったまだ8歳のボブ、毒でも飲んだのだろうか、とても不可解な突然死だった。
 それから3カ月してテッチャンと極めて短い出遭いと別れ。ボブを亡くした寂しさからか娘が自室でこっそり飼っていたミニチュアダックスフント。飼っているのに気づいたと思ったらサッと昇天してしまった。娘は別の名前を付けていたようだったが、私は真っ黒い光沢ある毛並みと輝く鋭い眼差しにどこか明晰な哲学者のような感じがしてテッチャンと呼んでいた。歩き始めて程なかった初夏の午前中、娘の留守中の出来事、娘の部屋からお店に抱えて連れていっていたカミサンが、客の応対で目を離した隙に、自動ドアから外に出て、疾走してきた車に跳ねられて即死!支店から慌てて戻った私の前にあったのは今朝まで元気だったテッチャンのまさに青天のへきれき、動かぬ小さな遺体だった。
この年三度目の悲しい出来事は秋の終りにやってきた。庭の力強い番犬として頼りにしていた柴犬サブロウ、だいぶ老いてきたなあと思っていた17歳、晩秋の朝、私に最後の優しい眼差しをくれて、そのまま行方不明になった。死期を悟った利口な飼い犬は、飼い主に始末してもらう前に自ら山に旅立つという。実に利発で大人しく、飼い犬として非の打ちどころのなかったサブロウ、きっと自らの命の終焉を自らの手で、死出の旅を選んだのだと思っています。
 わずか数カ月で3匹の愛犬との悲しき別れ、折れそうになっていた傷心を癒やしに、突然現れたのがヒメコだった・・・(つづく)


支店のあるスーパーマーケットの結構広いスペースの玄関ポーチを犬を連れて行ったり来たりしている男性を見つけた。なんか躾か訓練をしてるみたいだった。犬の話になり、自分は近所に住むボランティアのブリーダーK,最近、子犬が産まれたのでどうも見に来て・・・という。
この話をその晩、娘とカミサンに話したら、早速、見に行ったのです。Kさんの家は我が家のある鯨が丘の高台から急な階段を下がったところにあり、六角形の屋根が特徴の家でした。時折、散歩で通るあの変わった家がブリーダーさんをしていたとはねえ。そういえばたまに、脇を通ると犬の声が聞こえたような気もします。
思い立ったら吉日、二人はKさん宅を訪ね、ヒメコと初の対面をしたのです、もちろん、その時は名前がないからヒメコではありませんよね(笑)、カミサンによれば数匹いた子犬のうち、ヒメコが一番元気がよく、愛嬌があったんだそうです。でも「これを譲り受けたい」と申し入れした時、一人だけ、とっても残念な、可愛そうな顔になった方がいたそうです、その家のおばあさんです、実はヒメコは、生まれてからずっとおばあさんの部屋で過ごし、おばあさんもヒメコだけは手元に置いて手放したくなかったそうです。やがて、ヒメコが、このおばあさんに会うと、これまで見せたことのない感激感情を見せた理由はそこにあったのです。
2003年の11月初め、ヒメコが我が家の家族になりました。(つづく)



生まれて40日で我が家の座敷犬になったヒメコちゃん。実は私、犬は外で飼うもの、家の中はあくまで人間様の居場所、いくら利発な犬でも失敗粗相はつきもの、座敷犬を飼うのは基本的に反対なのです。しかし、そうした心配が全く要らないとても躾の生き届いたヒメコちゃんでした。Kさんのところの躾の良さ、教育訓練の成果なのでしょうね。あとで伺ったことなんですが、この家には、生まれたばかりの子犬たちをとても面倒見よくしつける、貫禄充分のオババ犬さまがいるそうで、ヒメコちゃんもそのオババさまに手厳しくトイレ始末を教えられたらしく、ただの一回も粗相をしないで、トイレシーツにきちんとするので感激しちゃいました。「偉いねえ、ヒメコちゃん」と褒めてあげると、実に嬉しそうにしてくれます。
ところでヒメコちゃん、最初からヒメコではありませんでした、最初はサクラちゃんにしようとカミサンと娘は決めていたそうなんです、しかし、近所に人間の赤ちゃんで、サクラと命名したことが分かり、失礼になるからと、ヒメコにしたのです。まあ、我が家の御姫様といった感覚での命名でしょうか。
朝のご飯は私の当番。小粒ドックフードにミルクをかけてお湯で柔らかくそこへ、マグロ風味のササミ&野菜缶詰まぶしが好物。朝日を浴びるのが大好き。そして結構お茶目でキカンボな一面も見せてくれます。3匹の犬との悲しい別れに悲嘆の私たちの心を癒やす、宝物のようなヒメコ、すくすくと育っていきました。(つづく)


2004年、2005年、この二年間はヒメコにとって我が家のたった一匹の愛犬としてわが世の春を味わっていました・・・。散歩で一番の場所は東坂(あずまざか)から急傾斜の階段です。阿武隈山系の稜線がくっきりと見える見晴らしの良さに加え、ヒメコにとっては生まれた実家と結ばれた、まさに血の繋がる道なのです。
初めて歩いたのは確か、イヌフグリの可憐な紫の花が咲き始めた2004年の早春だったと思います。坂の上から見えるツインになった六角形の屋根が実家です。利口なヒメコはそこには自分を生んでくれたパパがいてママがいて、躾てくれた伯母がいて、そして・・・あの、何物にも代えがたいほど愛してくれたおばあちゃんがいるのです!クンクンクンクン、嗅ぎながら階段を下りていくヒメコ、階段の下まできたら、もう一目散です!一気に角を曲がって走り、柿の木の下を通って、おばあちゃんの暮らす離れの部屋に・・・。逢えました!おばあちゃんに、久しぶりに・・・。激しく尻尾を振って、おばあちゃんの顔をなめて、嬉しさのあまりおしっこも漏らしました!(つづく)


ヒメコとの思い出はたくさんあります。丸9年も家族だったのですからね。春はやっぱり里川かなあ。土手一面を染める黄色い菜の花。匂いをかいだり、寝そべったり・・・花の春を十分に満足していました。日本の空の航空機の安全に欠かせない航空衛星センターへの医薬品配達の折には、すぐ下の白羽スポーツ広場の芝生が好きで時折連れて行きました。

鯨が丘のお祭りで通りが歩行者天国になると喜びましたねえ。身体が小さいから人の波の足元をすり抜けてあっちにいったりこっちに来たり。友との対面、時々、若いお嬢さんや幼児に「あら可愛いね」などと言われると尻尾を振って喜んで・・・。でも一番の感動の出遭いはやはり、実家のおばあさんとの対面でしたねえ。


人・人・人の中からおばあさんを見つけたら一目散に飛びついて、ありったけの逢いたかったポーズ!!!おばあさんも感激して涙までこぼして・・・。
 2005年の暮れも押し詰まってクマコが突然我が家の家族なった。このくだりはクマコ物語にて。
 クマコを家族として迎え入れ、庭の番犬、外犬としてしつけが始まりました。しかし、そこは犬のこと、ヒメコは家の中にいて、なんで自分だけ外?!そんな気がしたのでしょう、ある日の夜、クマコが玄関から廊下、居間をかけ歩きました。それから程なくしてヒメコの様子が変わりました、食べた物を吐いたり、なんかソワソワしたり。きっとクマコに我が縄張りエリアを荒らされてストレスによる自家中毒を起こしたに違いありません。
 普段とっても元気で丈夫なヒメコにはたった一つだけ持病がありました。てんかん発作です。年に1、2回ってとこでしょうか、身体に電気が走ったかのように、ブルブルと震わせ、口から泡を吹き出し、後ろ足をピクピク痙攣させ、私も最初は一体全体何が起きたのか皆目わからず、感電でもしたのか、ビックリしました。
でもこの発作も、次第にぐんと減ってきまして、近年は全く起こさなくなりました。その一番の訳はおやつにドックフード売り場にあるガムやジャーキーなどを食べさせなくしたことです。勝手な推測ですが、ヒメコの体質にはそれらに入っている防腐剤や保存剤など化学物質が合わなかったのではないかと思います。
食べ物といえば、我が家の犬食は比較的簡単な手作り系が多いです。朝は、ダイコン、ニンジン、キャベツなど野菜を煮て、おかずは肉やソーセージ、そして少しの炭水化物。たまには肉の代わりに缶詰めのドックフードを。夜は乾燥したドックフード少々。もちろん偶には大好きなサツマイモなどイモ類もあげます。パンもね。

そして、犬が一番心配なお腹の寄生虫対策と、基礎体力免疫力づくりに、朝だけは私ら家族が飲んでいます保健薬・レオピンも数滴たらしてあげます。それ故にでしょうか、我が家の犬で、いままでに便から虫が出たことは一度もありません。
平和で平穏な日常を突然、何の前触れもなくやってきたのが、大震災でした・・・(つづく)


2011年3月11日午後2時46分18秒・・・。遡ること20日ほど前の朝見た、大きな地震と久慈浜(日立)の水平線にむくむくと迫ってくる大津波の夢がまさか、正夢になるとは・・・。祖母や母、叔母から関東大震災の出来事の恐ろしさは聞いてはいたが、まさか自分の身にこのような悲惨な揺れと地割れと崩壊と、次にやってきた原発事故の恐怖が振りかかろうとは・・・。
 大正時代に建てた店舗の屋根瓦のグシが崩れ二階床の間が壊れ、通りがかりの女性の機転で危うく難を逃れたカミサンの奇跡的無傷、地震発生の直前に偶々用事で迎えに来て父親の車に乗せられ一緒にいなかった孫、もしカミサンと孫が一緒にいたら、どちらかがきっと屋根瓦落下の事故に遭っていたかも知らない。店舗裏側の庭にいたクマコも、なんとか瓦の直撃を避けてくれた。古い建屋と違ってヒメコがいた自宅の方は、プレハブ工法なのでか耐震性に優れキッチンの皿一枚壊れなかった。でもきっとあの揺れは、ヒメコにとっても初めての大地震、さぞかし心細かったはずだ。
 あれ以来大きな余震がくると、その少し前から吠えるのが目立つようになったヒメコ、地震から4カ月ほど経った暴風雨の晩、事故は起きた・・・。足が短く胴が長いミニチュアダックスのような犬種は、椎間板を痛める傾向があるのでなるだけ階段を登らせない方が良いという。
わかってはいても元気なうちはなかなか制止できない。ヒメコは毎晩のように我が寝室がある二階に登ってきて、一晩一緒の布団で寝て朝、私が抱えて一階の居間に戻る、そんな日常だった。もしかしたら昼間も二階との往復を愉しんでいたのかも知らない。夕方6時ごろか、カミサンが店舗を閉めて自宅に戻った時、ドシンと音がして・・・ヒメコが階段を何段か踏み外して落ちたらしい。程なくして私も支店から戻りヒメコの様子を窺うと、後ろ足を引きずって痛そうだ、午後9時ごろ、かかりつけの医師に電話したが繋がらず、電話帳で調べて水戸の24時間体制犬猫病院へ向かった。雨と風が激しい深夜だった。私が運転、カミサンが毛布でくるんで暖かくヒメコを抱えていた。カミサンの指摘を受けたので修正します:我が記憶違いですね、カミサンが運転、私がヒメコを抱えていた(笑)。(つづく)

今日19日(3月)はヒメコの4回目の命日だ。旅立ってから4カ月が経つのだなあ。早いのか遅いのかわからない。悔恨がある。もし仮に、去年の夏ごろまでに支店を閉店していたら、ヒメコは死なずに済んだのかも知れない。秋の初めに帯状疱疹になり数カ月四苦八苦、カミサンの体調不全と店舗の二店維持か一店集中かで思案が二転三転、苦悩の中で私は心の余裕をなくしていたのかも知れない。あの晩、そう、ヒメコが発作を起こした晩だ、私の不注意がヒメコを早死にさせてしまったのだ。あの晩、正式にいえば11月19日の午前1時ごろだったと思う、小水とのどの渇きで起き、階段を下りてキッチンに。いつもならヒメコが気づいて私に近づいてくる、寝床から起き上がって歩いてくる、しかし、その時は寝ていた、ヒメコが横になっているのは横目で確かめた、前日の秋祭り歩行者天国で遊び疲れて寝ているのだな、疲れて寝ているのだな、そう思ってヒメコの傍に行き様子を確かめる行動をとらなかった、この無神経、自分勝手さ、愛情の足りなさが、彼女を死なせてしまったのだ、あの時、すでにヒメコは心臓発作を起こしていたのだ、だから起きなかったのだ、起き上がって私に近寄ってくる、いつもの仕草を見せなかったのだ、もし仮に、あの時、ヒメコの容体の急変に気付いて、24時間体制の救急犬猫病院へ連れて行っていたら、絶対にヒメコは死なずに済んだ。
 私が異変に気付いたのはそれから一眠りして、(その頃の私は今と違って朝の7時ころまで寝ていた)、起きた7時過ぎだった、眼がおかしい、瞳孔の反応が実に鈍い、身体がぐったりして、起きようとしない、かなりの重体だ、慌てて病院へ運んだが、それから数時間して息を引き取った。ヒメコ!!!!済まない!!!!
あなたの命を奪ったのは私だ!!!私の不注意、そして余裕のなさ、愛の浅さ、薄情さ、体たらくさ、甘さ、無責任さ、そういうものがあなたを死なせてしまった・・・。
ヒメコを失って4ヶ月、大きな悔みの気持ちで朝を迎えた。今日はヒメコの墓に花と水を備えよう。そうだ、好きなお菓子もね。(つづく)

常陸太田市内のF獣医氏は信頼できる。知識力と経験豊富な老医師、漢方も時に使う優しい性格の獣医さん、ヒメコが怪我したこの晩は、何度電話しても留守で、水戸の救急犬猫病院へ向かう。後で知ったがこの24時間体制の病院開設者も実はF医師のところで修業された方のようです。さて、ヒメコの容体は椎間板ヘルニアでした。胴長、足の短いミニチュアダックスにはしばしば起こる怪我というか病気、診察されたこの夜の担当医は手術療法もあるが、成功率は半々で、失敗したら生涯歩けなくなるともいう。私は手術を断念した。とっさの判断だが、内服や温熱、鍼灸、そういう方面での治療方向が閃いた。これは結果論だが正しかったと思う。
2日ほどはヒメコも辛かった。大も小もよく排出できない。食欲もめっきり落ちた。大の方はお尻の穴にオリーブ油をつけた綿棒を差し込んで刺激し、これは結構うまくいった。インターネットで調べたら鍼治療の効果が書かれていた。関東に1か所、関西に1か所の犬猫病院で実施して成果をあげていた。遠路でも連れていくことも考えた、アパートでも借りて集中鍼治療でもしてあげねばならないか、とも思った。でも仕事のことを考えると長期に休むわけにもいかず、悩んだ。このままヒメコを歩けなくするわけにはいかない。閃いた。市内の鍼灸師をあたろう、やってくれるかも知れない。鍼灸師は街に数は少ない。周辺都市まで含め数軒に電話したが「犬は・・・」と断られた。経験がないのだろう。灯台もと暗し、だった。歩いて5、6分、道路沿いの貸しビルの二階にI鍼灸院がある、面識は全くないが当たって砕けろ、電話してみた。優しそうな落ち着いた声の先生だった。ヒメコの事情を話し、「犬も人間も鍼ツボ効果は大きく変わらないはず、先生、どうかみてあげてくれませんか」頼み込んだ。I師は「これまで体験はありませんがとりあえず連れてきてください」。実に嬉しかった!一縷の望み、希望の灯り・・・先行きがパッと明るくなった。
早速、その晩、I鍼灸院へヒメコを連れていく。電話口で感じたI師の印象はまさにその通りだった。年齢は40前後か、実に穏やかで謙虚で控えめで、そして真面目そうで、発言も的確で、信頼が持てる、非の打ちどころない人格者に見えた。この鍼灸師のもとに通えば、ヒメコはきっと元のように歩けるようにある、そんな予感をはっきりと感じた。ほぼ毎日、毛布にくるんでヒメコをこの鍼灸院へ連れて行き、約20分ほど鍼を打っていただく。I師は突然、降ってわいた初めての犬の鍼灸治療のために、急きょ、犬専用のツボ経絡模型を取り寄せたようだ、実に熱心に治療に当たって頂いた。それでいて「人間とは違うから・・・効果がわからないから・・・」とお払いする治療代も格安にしてくれた。感謝感激です。気持ちいいのだろう、治療中のヒメコは時折、ピク!という刺激反応こそ見せはするが、ずっと静かに穏やかに私の膝の上で鍼を打ってもらっていた。
 半月は通ったと思う。鍼の後はお風呂場に行って、少し熱めのお湯を足腰にかけて温熱療法を繰り返した。動かない足がピク!と時折動くようになっていくのが解るから嬉しい。
鍼と温熱、そしてラッキーは続き、次に巡り合ったのが犬の車いす「銀ちち」さんだった。(つづく)

人の車いすはよく目にするし知っていたが、犬に車いすがあるなんて全く知らなかった、ヒメコが椎間板ヘルニアになるまでは・・・。
犬の車いすの研究制作者・銀ちちさんという奇特な方を知ったのはインターネットだった。ヒメコを何とかして治してあげたい、元のようにはなれなくても少しでも歩けるようにしてあげたい、と思う一心で、犬の椎間板ヘルニアでネットサーフィンしてる中で知った。連絡をとったら銀ちちさんは即対応してくれた、ヒメコの身体に合った車いすを格安価格でつくってくれるという、そしてこう言ってくれた「その状態なら、うまくいけばやがて車いす外せるようになるかもね、リハビリにも良いから是非試して下さい」。
2万か3万か、お金には代えられない、ヒメコがまた外を自由に楽しく歩けるようになるのだったらどんなことでもしてあげたい。お風呂場での温熱療法、実験的な鍼治療に加えてリハビリ車いす・・・ヒメコを絶対に歩けるようにする、という確信にも似た感情が高まってきた。先がパッと明るくなる車いすとの出会い。銀ちちさんから計測用の車いすが送られてきてヒメコに当てがった。ヒメコは嫌がることなく簡単に測定でき、微調整した測定用車いすを送り返してヒメコ特注品の到着を待った(つづく)



ヒメコ物語 最終章「ヒメコは居る・・・奥久慈の大自然とともに」

  程なくしてヒメコ専用の車イスが到着した。最初のうちは慣れるまで家の中で使った。足を引きずって見るからに痛々しそうな歩き方をしたヒメコが、居間をサーっと、スーっと、さっそうと動く姿に感動した。良かったなあヒメコ、また以前のように動き回れるなあ、でも少しお転婆だからな、十分気をつけて動きなさいよ。家の中が慣れたら庭に出たり、歩道に出たりした。外が何より好きなだけにヒメコはとても喜んだ。このあたりではまだ犬の車いすは珍しい。郵便局あたりまで朝、散歩すると道行く人たちが目にとめて「ヘー・・・」と感心する姿も。

 車イスになってからヒメコの表情に明るさと元気が回復したと感じたのはカミサンも含め家族みんなだった。手術方式を選ばずに温熱、鍼、そして車イスでまずは健康なヒメコになったことに感謝した。食欲も実にあった。でもしかし、腰回り胴周りの筋肉だけはつかず、痩せていた。

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 車イスのヒメコと一緒に休場展望台に行ったのは今思えば、とても懐かしく、そして楽しい思い出です。ヤスンバといういささか変わった呼び名の展望台。


奥久慈の旧山方町・上山(うやま)にある標高400Mほどの高地。見晴らしはとてもよく、北に男体山と月居山、西に日光の男体山、那須の山々、晴れた日には富士山も望めるという。

 どこの犬も同じなのでしょうか、ヒメコは外出がとても好きでした。歩いての散策もそうですが車も大好き。助手席にチョコンと座っては、時折立ち上がって車窓から外を眺める、今も思い出しますね。

 茨城北部には日帰り温泉がたくさんあります。中でもアルカリ度がとても高い方の三太の湯を抜けて、細い上り坂を上がっていきますと休場展望台駐車場に着きました。家からゆっくりの速度で45分ちょっとというところでしょうか。人はだれもいません。静かです、とても静かな山奥という感じです。駐車場で車椅子にしました。すぐさまヒメコは喜んで歩き回り始めました。だめだよ、ヒメコ!そっちは坂道、下まで転げちゃうよ。ヒメコはとても利口です。私の言う言葉は大半を理解します。顔をクルッと向けて私の方へ走ってきます。言うことをきく犬は可愛いです。

 駐車場から階段を20段ほど登ると見晴らしの良い展望台がありました。もちろんヒメコを車イスのまま抱えて展望台に連れていきました。

素晴らしい景色です。眼下に広がる山、山、山・・・、谷と尾根が幾重にも続いていく。奥久慈、茨城の北部はそれほど高い山ではないが実に奥行きを感じる自然美の宝庫、里山の牧歌的光景の中にあります。

この展望台に立って、この景色の中にいると、自分の感情と心がとても落ち着き、今までにない安らぎを感じる、果たしてこれはどこから生まれるのだろうか、考えてみました。わかったのです、その答えが・・・。


昔々、今から60年前の私自身がそこにある、この自然の中に溶け込んでいたのです・・・。

この展望台のすぐ下の集落、北富田・田の平という場所こそ、5歳の私が暮らし始めた、まさにそのふるさとだったのです・・・。


常陸太田で生まれた私は三歳になる直前、奥久慈・久慈川のほとり、水戸と福島・郡山を結ぶ水郡線・西金(さいがね)に引っ越します。教師だった実父がそこの中学教頭になったからです。そしてそれから2年、西金の東側にある山の上、北富田という場所にあった分教場が小学校に昇格してその初代の校長に父がなります、そのために5歳の私は、父母や祖母、兄とともに、西金から歩いて、長く遠い山道を登って、山のてっぺんにあった北富田小学校に辿りつくのです。学校が自宅です。そこがそう、北富田の田の平。行けども行けども、真っ暗な杉林を息を切らして曲がっても曲がっても、なかなか着かずに登った山道、しかし、一気に左手に明るい展望が開けて眼を見張りました。切り立った断崖の山の手前に、見える明るい太陽を浴びて広がる段々畑と麦わら屋根の民家。のどかな牧歌的風景のそこが奥久慈・男体山手前の古分屋敷(こぶやしき)という集落だったのを知ったのはずっと後です。

5歳で北富田に登り、小学入学もした3年の間暮らしたこの田の平こそ、私のふるさとの村だったのです。カラスや蛇の卵採りとか、あの山の向こうに古井戸があるから探検に行こうとか言って、友達と暗くなるまで遊んだ場所、それがここです。当時、このあたりは茨城のチベットと言われて電気が灯らなかった数少ない山奥の場所でした。どこの家も灯油のランプです。校庭にあった遊動円木を漕いで暗くなるまで遊びました、遠くの山の斜面にランプの灯りが点ります、すると祖母の声がします、「(ランプの)ホヤ磨いて!」。私の夕暮れの日課でした。

太平洋戦争で、激戦地沖縄に向かう富山丸が米軍魚雷攻撃で撃沈、数千人が海の藻屑となった中、九死に一生を得て生き残って復員した実父、団塊の世代一号として生まれた私、戦後間もない、貧しく何もない時代でした、しかし・・・そこには銭金では絶対に買えない、極めて大切な財産が存在しました・・・。人の心を癒やすのどかな大自然と、自分のことより人のためにしてあげようという優しい人情・・・。そういうものがこの山の上にはあったのです。

得も言えぬ安らぎはそこから湧き出していたのです・・・。


 ヒメコはもうこの世にはいません。しかし・・・ヒメコは厳然として存在しています。私の脇に、前に、後ろに、上に、隣に、いやいや、我が心の中に、いるのです。


愛するヒメコと共に一緒に見て感じた奥久慈の自然の安らぎ・・・生涯の忘れられない宝物です。(ヒメコ物語・終り)