真夏の激論で死にかけた記念講演会。息を吹き返したのは友情と古里を想う熱い心だった…。



茨城県北の山と海と田園を古式豊かな祭り一色に染めた第17回金砂磯出大祭礼。10日間の祭りそのものが1200年の伝統を繋いでゆくこの古里に生き、暮らす者の責務。この縦軸に枝葉の横軸ベクトルは無いものだろうか、この祭りをキッカケに我が街の自然や歴史の再確認をすることもまた、平成の大祭礼の一つの側面ではなかろうか、そんな想いから企画したこの講演会。
常陸太田青年会議所OB会(木下会長)同志の結束したハートで大成功に終わりました。
 私の思い付きに熱き友情を傾けてくれた仲間たち、そしてボランティア状態で快く講師を務めてくれました古川和男先生と川上千尋先生、遠くから万難を排して参加してくれました聴衆の皆様に感謝の意を込めて、顛末をまとめ、講演内容を収載していきたいと思います。
記念講演会実行スタッフ
木下順曠(JCOB会長)菊池保裕(副会長・司会進行)岡部守博(副会長)立川久泰(事務局長・総会担当)鹿志村勇夫(事務局)川又愼(会計・フリータイム司会)赤堀平二郎(会計補佐・PRチラシ&資料作成)佐藤健次(幹事)木村仁久(幹事・案内接待)西野一(幹事・パーティー司会)藤馨(幹事)橘幸一(受付)椎名尚志(幹事)川崎卓男(相談役)石川一博(演出)根本龍司(CD演出)小寺康生(誘導&飲食)武藤均(歓迎挨拶&乾杯)庄司敬一(受付)日座誠(幹事)敬称略順不同


<佐竹と水戸のお殿様>
 10年前、ユニークな野外梱包芸術家・クリスト氏が展開したクリストアンブレラ。里川と阿武隈の山並みが作るV字形の谷と田園が延々と林立するブルーの傘と調和し、かつて見たことも無い夢幻の世界を生み出した。彼は言った。「この景色はこれを見た皆さんの記憶の中に残れば良いのだ」。そして僅か10日間で3000本(アメリカと併せて)の傘は撤去され、我が街はのどかないつもの風景に戻った。

 傘が奏でてくれたふるさとの自然の素晴らしさの再認識、この珠玉の自然を一層盛り立てていかねばならないという気持から常陸太田ライオンズクラブにポストアンブレラ委員会、後のふるさと活性委員会を誕生させた。
 この委員会はこの数年、我が街の北の主山・国見山に市民100人を登らせたり、西山荘周辺に水戸黄門ゆかりの桃の木を植栽したり、細々と、しかし、息長く活動を続けています。迫り来る大祭礼に対しても氏子が行う行列本体とは違う何らかの枝葉の行動を取りたいな、と思っていた。
 委員会メンバーの一人石川一博氏らと話す内にまずこんなプランが生まれた。

A:金砂大祭礼への対応について
  
 来春行われる満72年毎の大祭礼は我々に祖先が残してくれた偉大なる財産。祭りの意味・意義は「素朴に、自然に、生き抜こうとする力を励ましつつ、老若が共に生きていける環境づくりのための工夫であるならば、何と素晴らしい世界に誇れる発明なんでしょう」(代々祭主子孫・古川氏、日立市郷土博物館発行物)

 来春、祭礼期間内に「佐竹・徳川両家・現代の殿出席歴史行事」(仮題)
我が街の戦国から江戸までの730年、君臨した二君に感謝し、歴史的遺産を残してくれた恩恵に感謝し、歴史への再確認・再認識することで、歴史の活用・街の魅力化、付加価値を探る。
その第一弾として、今夏、または今秋に、市民対象歴史シンポジウム「大祭礼とは何か?祭りは私たちの生き方にどう結びつくか?歴史とは何か?歴史をどう活かすか」をテーマにした公開座談会を開催。

 パネラー予定者 古川和男氏(過去15回の大祭礼祭主の子孫、湘南在住、元東海大学教授・新エネルギー・トリウム熔融塩国際フォーラム代表)
高橋茂氏(佐竹家研究専門の郷土史家、佐竹関連出版物多数、真弓町在住)その他。
 2002年3月の委員会審議では「徳川は佐竹の文化を壊した」「両家の現代当主を招く困難さがあるのでは」「祭りと両家歴代当主の関係は?」などの意見も出ましたが、「何でも初めから否定的では生まれない」「中止になった時代祭りの目的の一つは佐竹・徳川の歴史的調印式だった」などの理由から、とにかく前向きに実現への調査・行動を起こそう、ということになりました。

<真夏の夜の激論・序曲>
 ふるさと活性のメンバーはまず5月の連休に西と東の金砂山に登った。呼びかけたのはクラブ全員だったが参加者は4,5人と少なかった。この盛り上がりの無さが後に悲惨な結末になるとはその時、想像だにしていなかった。

西金砂山頂に立つ仲間たち
 プランを練って事前に分厚い資料を配布して臨んだ8月29日の晩の拡大委員会。一生の思い出に残るものだった。
配布した資料はこんなものだった。
1:大祭礼期間内(2003:3月22日〜31日)のイベント開催
  A 記念講演 核物理学者・古川和男氏
              「祭主子孫として大祭礼に想う
                    −21世紀の生き方・暮らし方」(仮題)
   
  
  B パネルシンポジウム 
仮題「歴史とは?祭りとは?――
―偉大な歴史遺産を有する我々常陸太田・県北人はそれをどう活かすべきか」

パネラー候補
      川上 千尋氏 太田から県北のエリアを歴史的かつ自然的にキャンバスと見て地域   家庭博物館(エコミュージアム)にしようとしているロマンの人
      大和田正広氏 茨城高校・社会科教師(参考書執筆多数)県北の古老聞き取り調                査などで生徒に歴史と伝承の大切さを学ぶ実践的教育者
      佐竹や徳川問題の郷土史家 例 高橋 茂氏 寺門守男氏
      大祭礼支援の会 (根本義勝氏、または井坂攻氏・ふるさと志向SOHO者)
      太田街角案内人(代表か女性案内人)史跡を観光客にPR   
      鯨丘商店会長 佐竹古城の壁画再現PR
                まだ思いつくのはこの程度ですが…。

2 開催の趣旨 我が常陸太田・久慈県北地方は5000年以上も前から人々が暮らす正に古き歴史的なエリアだ。歴史の山懐に抱かれて我々現代人も生きていますが、その素晴らしい認識を心底から持っている市民層はどのぐらいいるだろうか?
 様々な歴史的遺産が散在していながらそれを十二分に活かした街作り・地域づくりをしているだろうか?残念ながらまだまだノーと言えそうだ。
72年毎の歴史絵巻鑑賞に併せて、「歴史を持つことの意味」「歴史を活かすことの意義」「この祭りのもつ意義」などをしっかと考え見詰めなおすシンポジウム。
その前に、基調講演として、西金砂神社の祭主家系の子孫・古川氏に祭礼に深く絡む代々のエピソードや、より安全な未来のエネルギー開発研究者としての示唆に富む生き方を1・0〜1:5時間話してもらう。

 世界に注目される画期的な祭りの地元ライオンズクラブとして、大祭礼期間に、常陸太田・県北に住む人々に歴史があることのすばらしさの再認識(佐竹470年・水戸徳川260年の歴史の非連続性の価値再認識=運命的・必然として起こった移封の持つ意味=移封されたから秋田が生まれ、太田に水戸黄門が誕生した)、とそれを今の暮らしに活かす大切さの醸成ができればこの企画は成功であろう。
 シンポジウムにはIT手法活用!
3:埋もれた佐竹の歌「舞鶴城哀歌」の披露  アトラクション
  徳川の埋もれた歌の発掘?
4:佐竹・徳川研究のドッキング これからの課題(川上氏の認識。今後協議が必要)

<基調講演&シンポジウム運営形式>
 常陸太田LCを中核にして諸団体(地域家庭博物館網、大祭礼支援の会、JC、商工会、市文化財愛護協会、まいづる塾?大好き太田ネットワークなど)と連携した実行委員会を発足させる。
<必要経費・予算>
実行委員会にて協議

<LCのメリット>
 大祭礼の華やかさ絵巻の挙行と鑑賞にアカデミズムの演出を付加する記念イベントの開催のリーダーシップを担うことでのイメージアップ。

<備考>
 講演&シンポジウムの前段で、佐竹秋田市長や水戸徳川当主の挨拶を戴けないか?

<激論・そして空中分解へ>
 この会議に参加したのは15人ちょっと。委員会メンバーのみならずクラブの運営に重要な位置を占めている長老格3名も招いていた。事前に自宅を回って配布させて戴いた15枚にも及ぶ資料コピーを、各人それぞれに熟読されている筈、前向きに話が進むものと思っていた。しかし、話の方向は私の期待と予測の方向をどんどん離れていった。せっかくの資料を読んでない方もいた。
 主な意見を列記しよう。
「古川家が祭主子孫というが根拠はどこにあるか?我こそが大小祭礼に深いゆかりあり、とする方は大勢いる」(古川家が天狗面を所有していること、江戸のエッセイスト加藤寛斎が当時の古川当主から祭礼のあらましを聞いて書き残してあることなどを私は発言した)「古川和男氏はわが国の原子力政策に批判的立場をとる学者だ。ライオンズがそうした人物を講師に呼ぶのは考え物だ」(わが国の原子力政策は特定利権と政府・自民党の頑迷な考えに固執しすぎ。事実隠蔽の産物として東電問題も生じているではないか。もっと大局でエネルギー問題を考えるべきで、この時期、むしろ古川先生に原子力問題の提言までしてもらうのが時宜にあってためになる、と私)「祭りは楽しむもの。余計な講演会だのシンポジウムだのやっても時間の無駄だ」そんな発言も。
 この時期、日立市では行政が後ろ盾で大祭礼に絡めて街の活性化事業のプラン(やがて海と山のまつりとして結実)も真剣に煮詰められていた。しかし、我が街常陸太田は、渡辺龍一市長が憲法がらみで極めて冷めたスタンスでこの大祭礼を見ていた(この方針は結局、最後まで変えなかった)。こうした行政トップの判断が影響したのか市民層にもこの時期、大祭礼への取り組みに我が街だけは盛り上がりが全く欠けていた。
堪忍袋は結構大きい方だがあまりの後ろ向き発言の連続に私も、一瞬切れてしまった。「ふざけんじゃない!」一瞬、持っていた資料をテーブルにタタキつける場面もあった。私も大人です。5分後には全員と盃を酌み交わす心の余裕は持ってますがね。

ただ一つ、嬉しかったのは遅れてきた武藤均県議がこう言ってくれたことだった。「私は川又さんのこのプランは良いと思うよ。古川さんの話も聴きたいし、歴史の再認識というシンポジウムのネライも良いと思う」。彼が最初から出席してくれていたら会議の流れは変わったかも知れない。しかし、時すでに遅し。私の心の中ではこのライオンズ単独では実現不可能な企画だな、と感じ始めていた。
<救いの神がいた!>
 私が机を叩いたキッカケの人物は二名いた。うち一人は普段から仲の良い方、私の変人ぶりが好きなのか、彼もまた奇人の一人なのか、まあ、弟のように可愛がってくれていた一回り上の先輩Wさんだった。我がプランに二つ返事で乗ってくれるものと思っていたが、反対に奇妙な屁理屈で我が提出プランを潰す急先鋒を演じた。市長の弟で影響力のある発言をする彼の意見がこの晩の議論の流れを作ったことは間違い無い。
 そのWさんはその晩から常陸太田に顔を見せなくなった。彼には水戸にも自宅がありきっと水戸に戻ったに違いない。その彼から秋が深まったある晩、電話がかかってきた。「新ヤナギ(小料理屋)にいる、出てこないかい。待ってるからな」。あの企画の実現の方法を探って悶々としていた私は、潰した当事者の誘いに一瞬、嫌気がさしたが、そこは大人、何か話があるから電話をよこしたのだろう、少し遅れてかけ付けた。いつものように彼はカウンターにぽつねんと冷酒を飲んでいた。少し淋しそうだった。「あれからどうなったかな、と思ってね」。すかさずママさんが「Hさんはねえ、川又さんのことが気になってしかたなかったんだって」。私も言った。「Hさんにあんな形で持っていかれようとは思ってもみなかったよ。ライオンズ単独じゃやれないよ。やりたくもないよ。別な形を模索してるんだ、今」。僅かの時間、杯を傾けて別れた。
 秋が深まり冬が近づいて来た。大祭礼の本体の準備はどんどん進んでいる、と新聞は日々、報じ始めていた。
 その頃、救いの神が到来した。常陸太田青年会議所OB会の木下順曠会長だった。古川和男先生の茨城新聞連載を私が取りまとめて掲載にこぎつけて、我がHPで同時進行の企画を行った努力を評価してくれたのか、「川又君、あの企画を青年会議所の現役メンバーと共に実現しよう。近く来年度の役員と協議しよう」そんな前向きの言葉をおっしゃってくれたのである。
 闇夜に灯りを見つけた心境だった。
年の瀬までに、役員幹部の意思はJCOB会発案による記念講演会実施という方向性だけは意思確認をして新しい年を迎えることができた。古川先生にもその旨をメールでお知らせした。先生からは「驚きました。お忙しいのに、このような企画お纏めくださり恐縮です。
 小生、祭最終日は少なくも参加せねばと考えておりましたので、非常にあり難いです。最優先に確保し参加させていただきたいと思います。話が下手なのが心配ですが、資料を工夫いたします。」このようなご返事を戴いて、いよいよ大祭礼の年・2003年の朝が明けた。


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