数ヶ月前、私は湘南に住む古川さんと接点を得た。電話とメールのみでまだ逢った事はない。しかし、同氏の心情に共鳴するものがある。
古川さんはこの夏、自らの壮大なルーツに関わる随想を纏めた。来春、我が茨城県北で繰り広げられる平安絵巻「金砂大祭礼」、朝鮮半島に伝わる民族舞踏や西郷隆盛とのゆかりもある、という新説が科学者らしい論理展開で綴られていた。「茨城の人々に読んでもらいたい」。このお気持ちの実現に私もささやかに関わった。大祭礼には100万人以上の方々が全国、世界から訪れるという。歴史の激乱の中で1200年も続いてきたこの祭りを深く知る上で極めて参考になる古川論述。全国の皆さんにもご一読戴きたく、茨城新聞と同時進行でネット掲載する。



茨城新聞連載(2002:秋) 同時進行(10:27連載スタート)
千二百年を経た73年廻り西金砂大祭礼のロマン
古川 和男
(注・1927年生まれ。京都大理学部卒。東北大金属材料研究所、助教授を経て1962年、日本原子力研究所に出向。1983年から東海大学 開発技術研究所 教授。1996年からトリウム熔融塩国際フオーラム 代表。今世紀末の太陽エネルギー活用までのツナギとして、使用済み核燃料の核兵器転用の不安のない「より安全な原発」・トリウム熔融塩炉研究がライフワーク)

1.はじめに.「常陸国北奥に続く悠久の歴史ロマン
 1200年来,満72年毎という夢のように長い年廻りの祭典が,常陸国北奥の大変な僻地で営まれてきた.それを皆様は信じてくださるであろうか.なかなか信じてもらえないと思う.民族博物館長の梅棹忠夫氏に訊ねたことがあったが,「うーん・・・」と絶句されたのみであった.約20年前に故西堀栄三郎先生の紹介でわざわざ訪ねたのであったが.
 何度か滅びかかりつつも,郷土の人々の大変な努力で明年の2003(平成15)年3月22日から28日までの1週間,「第17回西金砂(かなさ)神社磯出大祭礼」として往復七十粁を越す道程を数百名の大行列を組んで執り行われる.第1回の前から始まっていた「7年廻り小祭礼」は,満六年毎の丑(うし)・未(ひつじ)の年に合計196回行われたという(2回欠けているようである).この機会に,古川家の祖先が創めたといわれるこの祭礼の歴史を知られているかぎり書き残しておきたいと思う.
 豊かでもない大変な寒村でなぜこれほど長く維持できたかをこれから語るのであるが,1つには,何度か整理されつつ維持された系図が,大祭礼を軸にするならば,わずか1.6mに見事に収まってしまうのも,大きな支えであったと思う.
 最近ようやく研究が進み,歴史学者の手堅い研究書[志田諄一著"金砂大祭礼の歴史"茨城新聞社]が出版されたが,1200年の歴史の流れは読み取れない.それは「なぜか.何なのか.」に答えようとの挑戦が本解説であるが,主因をとりあえず列記すると,
 (1) 記録がほとんど存在しないこと.―――近年まで神事の指示は「すべては口伝が原則」だったのにもよるが,古川本家の維新以後の衰亡と戦災による資料焼失(第9節参照)も決定的である.
 (2) 佐竹家の秋田移封.―――氏子筆頭を失っただけでなく,水戸徳川家は佐竹の痕跡一掃に努め,過去の歴史が消された.
 (3) 東金砂神社との争い.―――主導権争いだけでなく,上記の(2)が関係して史実を歪めた.それに神仏混交事情もからまり,史実を複雑にしている.

 以下に見られるように1200年の間には,何度か消滅の危機が存在した.今は安全に維持される見通しがついたとも思えるが,さらに歯止めを強めたいものである.
 そもそもこの祭の本質は,郷土保全の大衆の努力である.初期を除き古代中世に中央官庁記録がないから信じられぬというが,逆にそれが良い証拠である.地域大衆の支えが弱まらない限りこの祭は続くであろう.
42年前に筆者は,縁あって祖先の地に戻り,20数年を暮らした.喜んだ父はたびたび京都から訪ねてきて共に祖先の歴史調査を始めた.しかし郷里の有力者たちは冷淡であり,「もう昔のことに構いたくない」と明言してはばからなかった.戦中の国家至上主義政策への反撥が消えていなかったのであろう.
 この困惑を古代中国史家の畏友故後藤均平立教大学教授に語ったところ,「時の権力を信じない大衆は,昔を語らない.」と教えてくれた.「昔の事実」は皆「災いの種」になりえたのである.(今までの歴史はみな中央権力者のものであった.これからは主役の大衆が自らの歴史を明らかにし,また作る時代になるのだと思う)。
 世の動きとは面白いものである.そうしているうちに,米国のアフリカ黒人の青年によって作られた「祖先ルーツ探しブーム」に乗って,掌を返すように昔を振りかえる風潮が高まり,調査は楽になった.戦後の一時は消滅必死と思われた小祭礼も度ごとに盛大になり,第17回大祭礼も準備を終えたようである.生きて参加できるとは夢にも思っていなかったので,感無量である.



 2.古川家発生の地.「琵琶湖畔に誕生・祭りの舞い
 幼少の頃から父に聞かされた大祭礼ゆかりの話は,郷里では周知のことと確信していたが逆であった.今は筆者の持つ本家系図の写しがほとんどすべてである.
 そこには初代藤原盛有(もりあり)が近江の国で古樂式を創めたとある.田の神の祭の優れた振り付けを行ったのである.彼は藤原宇合(うまかい,馬養.鎌足の長男不比等[ふびと]の三男,694−737年)の係累という.宇合は715年に遣唐副史となり文武に優れ,子孫には学者が多い.742年に近江離宮が作られていて,またその頃続日本紀などにも田?の記録があるが,盛有は大津市から東北に25kmの琵琶湖畔にある近江国蒲生郡古川邑(JR篠原駅近く)で,優れた祭の舞を演じた.それが朝廷に賞賛されて「天下一家」の称号を頂き,延暦10年(791年)には日吉神社に奉仕したという.
 この古川邑(現在の近江八幡市古川町)は,野洲市の旧家辻川氏との奇縁で昭和56年(1981年)に探し当てることができた.見るからに千年変わらぬ閑静なたたずまいの6,70軒の農村部落であった.1m少しの幅の用水掘が流れ,ちょっとした中央広場には石の鳥居のみの白山神社があり,5つの寺がこの小部落にあるという.
 その後,土地の古老が昔の記録を探索しておいでであるが,この地帯では「400年以上前の記録はない」のが定説である.信長がすべてを消滅させたのである.日吉神社も同様であって,今残る最古の記録(生残り神官の記憶をまとめたもの)には,有史前、常陸国からやってきた高貴な老人の苫舟が,ある朝湖畔の唐崎の松の梢に乗っていた,との言い伝えがあるのだそうで,常陸国との縁が浅くないのが判るのみという.
 最近の古川町は都市化の波に飲み込まれつつあるが,昔はもっと湖畔に近く豊かな水田で栄えていたと思われる.また湖北を経て韓国から京都へつながる地帯であるのも興味を覚える(第4節参照).おそらく高い芸能を持った帰化人の一族が,権勢を誇っていた藤原家の縁戚となったのであろう.この古川邑から出たので,「古川」を名乗るようになったと言う.
 以後,日吉神社に奉仕していたが,中央集権体制確立に努めていた平城天皇は,東国の飢饉凶荒の救済と五穀豊穣祈願のために常陸国に日吉神社遷座の勅命を下し,盛有が30人の部下を連れて叡山の僧たち(系図に「最澄」とあるが,弟子たちでもそのように言うのが風習)と共に常陸国久慈郡金砂山に下り,神殿を造営した.
 比叡山の僧兵は有名であるが,彼らだけでなく日吉神社の神官たちも国家権力拡大の要員として多数養成されていたのであろう.派遣された大同元年(延暦25年,806年)は,最澄が唐から帰国し叡山造営にかかった翌年であまりに早すぎると志田氏は言うが,その直前数年は坂上田村麻呂が東北鎮圧に戦果を大いに挙げていた時代であり,常陸経営は緊急課題の1つであっても不思議でないであろう.
 なお日吉大社の地主神は大山咋命であるが,主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと,大国主命)であり,山頂の大岩が湖の対岸から朝日に照り映えて神々しく拝されたのが神社の発祥といわれる.西金砂山の西の大岩壁,そして山頂の岩は日吉大社への親近を強く感じさせるものがある.


3.常陸の国へ.大祭礼の創始 「生きる願いと敬愛の発明」
 盛有は常陸に向かうにあたり,奈良三輪神社に勧進し,特に主祭神を象る面として「笑い面」と俗称される面その他を名工春日に彫らせ持参したという(次節参照).
 祭主職を兼ねつつ古樂舞を奉納していたが,7,8年後についにこの地への居留を決意し,嵯峨天皇の勅命に従って弘仁6年(815年)から「7年廻り小祭礼」を創めたという.昔はすべて数えで示すから,これは満6年毎の祭りを意味する.氏子は上宮河内・下宮河内・赤土・諸沢・天下野(けがの)・中染・町田など7つの大字(あざ)部落で構成され,7人の世話人,7人の神輿奉仕者,7人の神職者,7つの屋台というように,すべてが7でまとめてある.この様な慣習制度がどのように決められていったか定かでないが,表Aに示したように7年廻り小祭礼を弘仁から天長,仁明,承和と,未(ひつじ)年に始まり牛(うし),未と繰り返し続けていく中で一層整えられてきたのであろう.
 その間に家督祭主職は2代目の盛綱に移ったが,文徳天皇の仁壽元年(851年)辛未の年に再び勅命を受けて,初めて「大祭礼」を行ったという.現在の日立市南端で久慈川河口近くにある水木の浜まで1週間をかけて神様をおつれする「磯出」の大行列行事が始まったのである.なおそれ以降は,朝廷と直接かかわった記録はない.
 1回目だけではこの制度が確立したと言えないわけであるが,7年廻り小祭礼を続けつつ3代目の盛祇をへて4代盛貞の延長元年(923年)になって第2回大祭礼が実現し,制度は固まった.最近は3泊4日をかけて水木浜まで行列し,禊を行い田楽を奉納し,3日をかけて帰山する.なぜ水木なのかについては諸説あるが,志田氏の書に興味ある記述があるので紹介したい.
 「常陸国風土記」に密筑(水木)の里の海で採れたアワビだけが「石決明」という漢字を用いており,不老不死の仙薬として朝廷に貢納されていた.少なくも天平四年および9年(737年,宇合の死の年)に記録があり,水木の浜は古来から聖地であったというのである.
では,「なぜ大祭礼が73年廻り」なのか? 誰独りこの謎に答える人はいない.しかし,筆者には自明に思われる.これは「7回目の未の年ごと」ということである.干支の12年間の6倍は満72年となる.第7回という縁起深い小祭礼執行にさいして第2代盛綱が,「7の数字」を最大限に盛りたてる制度としてこれを勇猛に発案したのであろう.このような思いが,1979年3月の小祭礼時に系図に基づいて表をまとめていて閃いた.以後,疑う気持ちになれない.これには「未の年」を重視する思いが裏打ちされている.神道では「未の年は穢れた(木枯れた)年で,元気づけねばならない」と言われている.これを父死後の1年祭にあたり宮司さんから教えていただいた.
 「7回目ごとの小祭礼」を大祭礼に格上げすることも考えたであろうが,それでは「未」が強調できないし,36年では希有な行事というほどでない.1200年の星霜に耐える力強さは生れなかったであろう.
 「73年目の大祭礼にあやかりたい」というのは,今でも部落の善男善女の,特に70歳を過ぎたご老人がたの強烈な願望として生きている.この現実が最大の証明であろう.だが,あえてもう少し掘り下げてみたい.今の小祭礼さえも大事業であるのに,昔の貧しい山間僻地の人々にとって大祭礼執行は容易ならぬものだったにちがいないからである.
 古老の思いは「生きる願い」そのものである.それを現に貫くには若者たちの「支え」が絶対に必要である.若いものからの「尊重敬愛」がえられねば老人は生きていかれない.それをもたらすのは「若い頃の部落への貢献」以外の何物でもない.それを最大限に励ますのが「この祭の心」だったのではなかろうか? 部落救済・繁栄維持のためのあまりにも見事な「発明」ではなかろうか.

4.面、韓国との繋がり 「河回村の岩崖に笑い面の不思議を見た」
 ここで主祭神大己貴命を象るといわれる「笑い面」のことを語りたい.これは今筆者の手元にある.といっても保全のため水戸歴史館に保管していただいている.
 古川本家は消えた(第7,9節参照)が,明治10年に分家した末子の祖父,その末子の父を経て筆者がある.小生も姉3人で末子に近い.末子であったから,晩年の親たちと語りあう機会が多く,祖先の思いが一番伝わったのであろう.そして今面は筆者のところに来ている.
 初代の面は,少なくも1800年頃までは存在していたようである.正式には「田蔵の面」といわれ,「猿田彦の面」(四方加持の天狗)および「鬼の面」(高足力士の武甕槌命)と共に奈良の名工春日の作であって,初代盛有が下向の折に持参したものといわれる.「里程間数之記」の著者寛斉も1000年を経て直接熟覧し,「上代の作にして木質枯朽し軽きこと紙の如く,虫喰たる所は漆にて内面御手入と成たる也.後年に至り猶損せん事を思召れしにや,千種刑部え仰付け(註:水戸藩主頼房の指示の意であろう.)影の面を打し也.正保先年の頃(1644,5年の頃か?)と覚ゆ.刑部は彫刻の名手なり.(水戸)下町荒神の別当なり」と書き残している.斉昭も見ていると言う.その他,多くの関連ある言い伝えが記録されているが他書にゆずろう.
 しかし,この面および影の面は残念ながら焼失したと考えられるので,系図を別とすると,この寛斉の記録が古川家1200年の歴史を客観的に証明する現存唯一の資料と思われる.すべての大祭礼の開催年次と祭主名の一覧表があるが,1字以外は系図と完全に一致する.これは元になる系図の正しい写しであることを証明するものである.この「常陸国北郡里程間数之記」は重要文化財として国立国会図書館にあるが,郡奉行所役人であった加藤寛斉が安政2年(1857年)にまとめ,水戸藩に報告した詳細な地方史誌である.多くの優れた写生画が添えてある.この貴重な文献を茨城大学瀬谷義彦教授に教わった.
 現存の面は3代目と言うべきであろうが,箱書きおよび包んだ袱紗の文字から立原屋重左衛門が文政4年(1821年)に奉納したものと考えられる.立原屋はおそらく著名な幕末の漢学者立原翠軒(漢学啓蒙書を全国に頒布)の一族と思われる.(地方には多くの「笑い面」の写しが存在する)
 初代の面はよくも1000年を永らえたものである.江戸時代には水戸藩が保管管理し,祭礼の時だけ貸し与えた時期もあったようであるが,現在の面は本家が直接保持していた.32代盛侃は戦争の激しくなる昭和15,6年頃,西染の家を処分しすべての家財・刀剣・記録等を持ち出したようであるが,その際に「この面は最も大切なものであるから抱えてゆく」と言いつつ座敷の中央に放置して出立してしまったと言う.縁者と挨拶を交わしていてまぎれたのである.後を見回った先代の外戚になる根本氏が見つけ,戦中を通して保管してくれていた.
 昭和45年頃,父と郷里を訪ねた折に遠縁の人がいるとのことで根本氏に会って驚いた.上記のような事情で預かっているが「ついに盛侃さんは現われず心配でならない.持ち帰ってほしい」という.本家への連絡を約し33代になる盛也に連絡をとり,彼の依頼で筆者が引き取ったが,1,2年後に亡くなった(第9節参照).
 日立在住だった伯母の話では,「何度か火事に会っているが,収まってふと見ると裏庭の大木にこの面がかけられていて救われた」という.しかしそれは初代の面の言い伝えかもしれない.
 考えてみると,盛侃が忘れていったのは「面の拒否」であったかのようである.他のすべての祖先ゆかりの品々は昭和18年(1943年)の東京大空襲により蒲田で灰燼と帰した.奇跡的にこの面のみ残ったのである.この面には1200年の祖先の思いがこもっているようで,大切にしたいと考える.

 なお,そうしているうちに数年前新しいことに気づいた.筆者が推進している新しい原発構想で韓国から招待を受けたのであるが,友人たちに「私の祖先はおそらく韓国から1200〜1300年前に渡来した一族だと思う」と語りつつ面の写真を見せたところ,韓国にも似たものがあると言う.
河回村にて
 最近その面の里を訪ねることができた.慶州市の北方にある安東市の南西郊外に位置する「河回村」の民族舞踊に使う面であって,やはり「笑い面」といわれる.起源は定かでないが,高句麗千数百年前につながるようである.直接でなくても,高い芸能を身につけて近江へ渡来した祖先の記憶に,この伝統がつながっていても不思議でない.なお古川家の人々は色白でひげ薄く明らかに遺伝的に韓国系である.千年変わらぬものであろうか?
 河回村の博物館長金東表氏は強い関心を示し,自らこの西金砂の面を彫り由来を記して展示したいという.また大祭礼への参加も希望している.ただし彼らの面には耳がない.回る河が三方を囲むので「河回村」といわれるが,民俗史上重要かつ現に生きている100軒ほどの部落であって,数年前に英国エリザベス女王も特別に希望して訪問している.また,村の入り口近くの対岸にそびえる岩崖は,西金砂山の岩壁(こちらは幅が狭いが)とそっくりである.

5.維持された1200年(その1) 「七度半」に潜む祭礼への執念
盛有は大和守であり,以後大和守と左近正(もしくは式部)を称しつつ本家を継承している.江戸後期になると,大和と山城を交互に称するのが慣わしであったというが,例外も多い.たとえば27代盛光は大和であると整合性がよいが,墓碑銘にはやはり古河山城藤原盛光墓となっている.なおしばしば古河の字が使われているが,字画が多く重みを感じ好まれる風習に従ったまでで,古川が正しい.
 第2回の大祭礼は,4代大和守盛貞により延長元年(923年)に行われた.その10数年後には平将門の乱(925−40年)が常陸国の南部中心に起きている.五代目大和守盛之が長徳元年(995年)に第3回を,8代大和守盛明が治暦3年(1067年)に第4回大祭礼を執行しているが,この辺りには源頼義・義家父子が奥州征伐の戦勝を祈願して太刀を東金砂神社に奉納したという(志田の書参照)が,西金砂神社が無関係とは思えない.
 9代左近正盛正が行った第5回保延五年(1039年)の大祭礼の後には,西金砂山に拠った佐竹秀義を源頼朝が攻めて,10代盛国の弟たち盛常・盛俊は戦死している.
 12代大和守盛文による建暦元年(1211年)の第6回,13代左近正盛安による弘安6年(1283年)の第7回大祭礼などを,執行できなかったのではないかと志田氏の書では言う.元寇による文永の役(1274年),弘安の役(1281年)が起こり,また加藤寛斉が弘安を弘仁と誤記しているからと言っているが,根拠薄弱である.
 この辺りでも系図の年次干支の記述に間違いは一切なく,大祭礼の規模はさておいて,ある程度の「磯出」が行われたのであろう.動乱の時ほど,地域庶民はより強く平安豊穣を願望したはずと思うからである.度を重ねるなかで祭りはより伝統的形態を整えていったと思われる.すべては「口伝」で指示執行されたと言い伝えられているが,その理由の1つは,古事記・風土記・日本書紀などが文書に初めてまとめられた710−20年頃から幾らも経ておらず,地方で文字を使うことはまだ一般的でなかった慣習によるのであろう.
 また古川家は「七度半(ななどはん)」とあだ名されたという.東金砂神社の滑川祐一郎宮司にお教えいただいた.祭主として祭礼関係の指示を出す権限をもっているが,期日が迫ってきて世話人が訪ねてもなかなか良い返事を寄越さない.七度かけあっても「まだまだ」と応ぜず,その後にようやく役員召集をかけたというので七度半と言われたのだそうである.たいした話題のない田舎では,一度使者が立てばすぐ村内中に知れ渡ったはずである.それで一通り心構えができたであろうが,事は簡単ではないぞとの戒めと準備協力を重々頼むとの意志伝達を最大限に強調するために取った,巧妙な宣伝工作だったのであろう.その年の大きな出費に備えるために,村中が嫁取りを1年延ばしたものだそうである.
 なお,「田楽」という用語は初期には存在しなかった.系図には「古樂式」と称しているが,学術的には長徳4年(998年)あたりから神社で「田楽」が奉納されるようになり,年を追って隆盛になったようである.起源は近江大野であるとも言われるが,これは古川邑から遠くなく,何らか少しは関連していると思う(記録の有無と史実は対等ではないが,学術的には兎角記録がすべてとなるのに注意が必要である).西金砂でもおそらく時代時代の流行を少しは取り込みつつ,祭の踊りは形を変えていったのであろう.

6.維持された1200年(その2) 氏子筆頭・佐竹家 移封後・水戸家も理解
 戦乱の中世を乗り越え祭礼を維持するのは容易でなかったと思うが,それでも上記のように比較的平穏であった.その最大の基盤は氏子筆頭の佐竹家の健在にあったと思う.栄えていた当時は常陸領主による国の大祭であった.
 西金砂神社の紋は三つ巴も使われるが、佐竹家と同じ「5本骨の軍扇」であり,また古川家も同じである.筆者の祖父盛輝は末子で明治初年に成人したが,「縁ある人物を」と求められて佐竹家発祥の地の十二所神社宮司を生涯勤めた.
 徳川幕府が江戸を守るために,水戸に副将軍を置き佐竹藩は秋田に移封したのは最大の危機であった.その前の戦国時代末期から事態は重大であって,系図でもこのあたりは特に詳細に祭事および古川家の窮状が記録されている(表 ).
 1571年に行われるべき第11回の大祭礼は地元で「居祭」をおこなうのが精一杯であった.織田信長の宗教政策により神領すべてが没収されている(23代盛清参照).信長が大和や和泉で検地をおこなった1580年頃のことであろう.
 水戸藩初代藩主の徳川頼房(威公)および光圀(義公)は,この地域の神社仏閣に対する佐竹家の影響をいかに消し去るかに並々ならぬ政治工作を行っている.西金砂神社にとっては,負の面もあったが,一方では900年来の伝統ある神事への理解とその活用,すなわち水戸藩の威信確立への利用が図られたのは,ほとんど瀕死状態であった祭礼・田楽の復興に役立ったのは明らかである.
 この時代になると次第に残された記録も増えてきて,志田氏の書などが論考を試みており,それにゆずるので参照願いたい.ただ,志田氏が大祭礼の年次ではない文禄3年(1594年)に大祭礼が行われたのでないかというが,信ずる根拠はないと思う.
 22代盛澄(大和,旧名治郎兵衛)が頼房の支援をえて,水戸の田楽師などの助力によって寛永20年(1643年)に第12回の大祭礼を行ったと系図にあるが,寛斉の「里程之記」には「此の年大祭礼ささら有て磯出無之居祭と成と言(古川山城旧記)」と書き記している.寛斉にもとかく誤記があるが,治郎兵衛は一時付属の家人がすべて離散していたのを思うと,これも「居祭」が精一杯であったかもしれない.
 25代主計盛元の時に,第13回が正徳5年(1715年)に行われているが,この時から真弓神社が「磯出」の行事から抜けるようになった.それまでは西・東金砂神社と真弓神社が共同して「磯出」を行っていたのである.志田氏の解釈では,光圀が幼少時から縁の深かった真弓山を別格とし,佐竹の影響を削いだにであろうという.なお系図には,24代盛篤の項に盛元の項と同じ記録があるが,寛斉の記録では盛元が祭主になっていて,盛篤のところは原本からの写し誤りであろう.
 28代山城盛義は天明4年(1782年)に第14回大祭礼を行っているが,天明の大飢饉の真っ最中である.難渋を極めたであろうが,だからこそ強行されたのだと思う.

7.幕末の動乱と古川家  幕末のエッセイストと31代盛恕の会談
 30代盛幸(大和)は,相当な漢学者であった.妻は別府上人の次女である.上人は熊本藩士であったが,特に水戸藩から招聘された漢学者である.常陸太田市に碑石が残されている.盛幸は私塾を開き多くの門弟を育てたというが,中に樺太を探検した間宮林蔵に同行した木村謙次なども含まれている.
 この父に育てられ,31代盛恕(もりひろ,山城)もなかなかの学者であった.和漢の学を赤須柏二に学び,18才には教授として門弟の教育に当ったという.近郷に住んでいた藤田東湖にも私淑しており,家督を継ぐ前年の嘉永5年(1852年)には,その年2月に謹慎を解かれた東湖の家に居留し,師範代を勤めていて西郷隆盛と東湖の出会いに立ち会ったという.
翌6年に家督を継ぎ,文久2年(1862年)には第15回大祭礼を祭主として取仕切っている.実は,その3年前の安政6年(1859年)が先の天明7年から数えて73年目だったが,安政大地震(1855年)のみでなく,前年の5年10月には安政の大獄が始まり,6年10月には橋本左内・吉田松陰らが処刑された.8月には水戸烈公斉昭の永蟄居,慶喜の隠居謹慎が幕府から命ぜられ,まさに動乱の世,とても大祭礼どころでなかったのである.盛恕は,その前の安政元年あたりに加藤寛斉に会い,大いに古川家の歴史を語り,資料や面を見せている.資料がすべて焼失した今としては,彼の「里程間数之記」にその記録が残ったわけで,じつに貴重な出会いであった.
 大祭礼前年の文久元年5月28日には,盛恕の弟の3男主馬之介忠興が,江戸高輪東禅寺にあった英国公使館に斬り入り,最後は門前で遺書懐に割腹自殺している(遺書記録残存).後に大仏次郎も「東禅寺事件は,若者たちの神国を想う純粋な義挙である」と評している.彼は,出立の前に兄盛恕を訪ね「西国に仕官が決まりました.それにつけ太刀を所望いたしたい」と言い,剛刀をゆずり受けて去ったという.22歳で最年少であった.明治44年の東京奠都50年祭に際し,正5位を贈られている.
 弟の4男・乕次郎盛美は,文久3年に松平昭訓(斉昭の子)に従って上京し,皇居守衛に当りつつ勤皇の浪士に協力した.任を終えての帰途捕えられて,慶応元年に江戸伝馬牢で病死し,水戸招魂社に祭られている.
この様に幕末勤皇の志士として身を挺して戦ったのは,郷士の2男3男たちが主力であった.彼らの墓は,末弟にあたる筆者の祖父盛輝が建てている.
 数年後に盛恕は明治維新(1868年)を迎えた.明治3年3月に藩主に会い,一度は西金砂神社奉仕を命ぜられるが,祭主職を中嶋氏にゆずり,東茨城郡竹原九ヶ村の神官のための神道集議所所長となり,権少講義という称号を受けている.明治18年には郷里西染に戻り私塾を開いて少なくも500人,一説では2000余人を育てたと言う.中には水戸中学校長となった菊池謙二郎なども含まれている.大正5年に83才で亡くなった.

8.西郷隆盛の突如抜擢の謎(上).父が語った隆盛と東湖の縁
 ここで主題とは異なるが,日本近代史上重要な謎を解く事件を紹介したい.西郷吉之助が,突然島津斉彬に見いだされたきっかけは何であったか,史上では明らかでない.諸説紛々であって,結論は西郷自身が「わしにも判らぬ」といったのに尽きることとなっている.
 しかし筆者は,小さい頃から父に以下のような素晴らしい話をしばしば聞かされそれを信じてきた.「東湖に会って感歎され,推薦された」というのである.それに盛恕が立ち会ったという.
 父武雄は明治23年3月生れであるが,先にも述べたように末子盛輝の末子4男であった.そして明治30ないし40年の頃,57才年上の本家の伯父盛恕を訪ね可愛がられたようである.昔話を多々聞かされ,叔父主馬之介忠興の決別の話も1つであるが,最も劇的であったのは西郷の話であった.
 この歴史的に重要な証言を父からの伝聞のみとするのは忍びないと,父に懇望して自筆で書き残してもらった(昭和50年2月).父はまだ10年20年は生きると自他共に許していたが,2年半後に88才で心筋梗塞で急死したので,幸運なことであった.少し長くなるが,全文を示そう.

 1.西郷さんのこと
 伯父盛恕が東湖先生の書生をして居った頃,或る日午下りに玄関へ「自分は島津藩の西郷吉之助と申す者ですが天下の一大事について是非先生の御意を得たい」と言って来たので,さっそく伯父はこれを東湖先生に取次いだら,先生は「放って置け」とだけ言って取り合わなかった.
 一時(ひと時,今の2時間)ほど経って,又玄関に立って居るので先生に申上げたが「かまわぬホットケ」と丈け言って居った.夕方になっても帰らぬので先生どうしませうと言ったら,「しぶとい奴だな.よし会ってやろう」と言って座敷に上げて何か2人で話を始めた様でした.大部話がはずんだ様子で,大声で一時(ひと時)くらい話をして帰る時は,先生が自分で玄関まで見送って帰した.
 西郷さんが帰った後,私に「今来た男はえらい奴だぞ」「吾が藩であれに匹敵する人物はだれかな」「久木直次郎かな」「いやいや俺かな」「アハハハ」と言はれた.
 其後先生から聞いた話では,水戸様(斉昭公)に其事を申上げた処,水戸様が島津さまにお会いになった時,貴藩にはえらい人物の西郷吉之助と言う人が居るそうなと東湖が言って居つたと話された.
 それで島津侯は家来に申付けて早速西郷を呼出せと命じたが,侍分以上にそういう人物は居らぬとの事で,尚よく調べさせたら,足軽に西郷吉之助なる者が居るとの事で,急に馬廻り十人扶持とかの侍分に取立て殿様に目通りさせて,其れから西郷が薩摩で見出されたのだとの事だったと言う.
 この話は,年取って話がなかなか聞き取りにくいくらいだったが,私は何べんも聞かされて覚いてる.
 2.古川主馬之介伯父の話 
 主馬之介伯父は東禅寺に切り込む二三日前に盛恕兄の処へ来て、今日西国のある大名に仕える事になるので腰のものを一振り所望したいと申込んで、刀箱から新刀の大物を選び出し、これを欲しいといったそうだ。
 そしたら伯父は、それは新刀で重過ぎるし、一旦緩急ある場合に不覚を取る恐れがあるから止せと云ったが、是非これが欲しいというので、それなら試して見ろといったら、「ハイ」と答えて袴の裾をはしよって足袋はだしで庭に飛び下り、「エイヤーエイヤー」と力を入れて十合切り込んで、すぐに縁側に座り込んで息もはずませずに兄上如何で御座るといって、それならよし持って行けと云って別れた、との事であった。
 大男だったとの事だが、其のあとで東禅寺に討入り腹を切って果てたので、あの時が別れに来たのだと思ったと云ってた。
京都市東山区星野町八七  古川 武雄 85才 

9 西郷隆盛の突如抜擢の謎(下).水戸に明治維新の原動力
 父の文中に出てくる久木直次郎は東湖の義弟(妹婿)であって,東湖の死後に代って斉昭の御側用人を勤めた.その妹は盛恕の嫡男幸太郎に嫁している.
 多くのことを思わせる。
1.)これは何時のことであろうか?
 まだ誰も知らない史実なのに気づき調査を始めたが,隆盛の事跡は事細かく調べられていて大変な難問であった.しかし,数年前に改めて詳細な年代譜を眺めていてはっと閃いたのは,母満佐の服喪時の空白である.亡くなられたのが嘉永5年(1852年)11月29日,それから2月9日までの2カ月が空白なのである.先に述べたように東湖は同年2月に謹慎を解かれ47才であった.西郷は26才,盛恕は翌年5月に家督を継ぐ前で21才であるから矛盾はない.
 なお隆盛はそれから1年を経ない嘉永7年正月には,斉彬の伴をして江戸に発っている.疑う余地なく,これですべての謎は氷解したと思う.
2.)このようなことが何故知られなかったか?
(ア)東湖が語らなかったのは?
 それは高度の政治課題であり,緊迫した政治情勢の中で雑談にのせるようなものではない.しかも2年半後の安政2年(1855年)10月2日には,江戸小石川の藩邸で安政大地震に遭い,老母は辛うじて救ったが自らは梁木で圧死している.語る余裕はなかったのでもあろうが,次に示すように軽々しく話せる内容ではない.
(イ)西郷が語らなかったのは?
 これは脱藩行為であって死罪である.言うはずがない.誰かが助勢していたならば一層であるが,独断の決行であろう.
 生涯語ることがなかったのは,真の革命家であった彼にとって私事などに何の関心もなかったからであろう.しかし,生涯「私の最も尊敬する師は東湖,同輩では橋本左内」と明言してはばからなかったのは有名な話である.
 脈絡のない風聞として,「西郷は東湖に会うのに苦労したそうだ」「なかなか会えず憤慨して,太刀で玄関の柱に斬りつけたそうな」「―鉄砲で柱を殴った-」などという荒唐無稽な話が記録されている.
 これらは盛恕の話と裏で符合している.さすがに隆盛も何か気を許した折に,ちらりと東湖に会うのに苦心した思いを漏らしたことがあったのであろう.公式には,すべての伝記に書かれているように,お庭方に任ぜられた直後,斉彬の命で樺山三円に連れられて小石川の東湖を初めて訪ねたことになっている.会うのに苦労するはずがないので,伝記作者たちは上記の風聞を皆奇異に感じたわけである.

 以上で,読者は父の話を信じて戴けるであろうか.父に手記してもらった3カ月後に新聞で海音寺潮五郎氏が筆者の住んでいた水戸に滞在しているのを知り,友人を介して父の話の調査を依頼した.彼は「大変貴重な資料である」と喜び礼状を出すと言われたそうであるが,間もなく不帰の客となられた.また,このことを横で聞いていた橋川文三氏が,執筆中の評伝「西郷と東湖(?)」に引用させて欲しいと言っていたが,その後は不明であり死去されたはずである.
 筆者は地球救済のため新方式の原子力発電所開発に40年来専念しており(参照:"原発革命"[文春新書]),これ以上の調査余力がない.少なくも東湖の日誌類を調べてみなければならないのであるが,皆様に協力をお願いしたい.
 この史実が正しいとするならば,影響は小さくない.少なくも,水戸学派の歴史的貢献が大きく改善できるであろう.彼らは東湖そして戸田忠敞という優れた指導者を共に震災で失った後,天狗党と諸生派に分裂して凄惨な対立抗争のなかで歴史から去ってしまった.
 しかし明治維新を大きく前進させた真の原動力は水戸にあったことを,これは再確認させるものではなかろうか.東湖は「天地誠大の気」を一身に集めた真の豪傑であった.自らは老母の身代わりになって果てたが,世を救うものを具体的に残していたのである.天狗党の天敵といわれた市之沢寅壽の子孫の優れた哲学漢学者市之沢寅雄先生から「私は東湖が好きなのです」との言葉をきいた感銘は忘れられない.
 筆者らは郷里を遠く離れて育ったが,常陸の人間である.明治来低迷しているかに見える郷土の人々の,志気を振るい立たせるのにも一助としてもらいたい.また、西郷を敬愛する人々にぜひ知って頂きたいものと思う。
非公開の磯出神事が行われる水木・田楽鼻

10.先祖の志.1200年のドラマから地球救済への道
 祭はまさに郷土のものであるが,古川家のその後を整理しておくのは今後の歴史研究の一助となるであろうし,また今後さらに1000年間この優れた祭を維持するのに必要だと思う.
 盛恕は明治維新の排仏棄釈の嵐のなかで,自ら神道の健全な発展に尽くしつつ郷里を離れていた.その中で神官の世襲制も廃止され,祭主職は神官であった中嶋氏に譲った.明治18年に郷里に戻った後は私塾を開き多くの子弟を教育したのち,明治38年に隠居している.
 32代の幸太郎は安政2年の生れであり,父の教育家の資質を継いで小学校教員・校長となり,生涯教職を貫いた.しかし時代の大変革の中で次第に家産は傾いた.次代は長男盛馨が継ぐべく教員となっていたが,26才で病死した.後継は突然に24才の次男盛侃となったが,おそらくそれまで次男として軽視されてきた多感有能な青年には,いささか実直そのものの父幸太郎と馴染むことがなかったと思われる.なお,幸太郎は幼名でついに1100年続いた「盛(もり)」の名は得ていない.盛侃は盛の字を持つが,「せいかん」としか聞いていない.
 このあたりから「古川家」の伝統への思いは本家で薄れていったようである.盛侃は新しい明治の青年として勉学に努め,鉄道に入り少なくも昭和10年に筆者が初めて会った時は47才で,鉄道教習所所長として熱海の豪邸に住んでいた.鉄道大学長と言ってよい.その後,中国鉄道管理局長などを歴任し,貨車1台祖先の遺品などを持って周っていたそうである.しかし驚いたことについに父の墓を作っていない.また,前述のように志士の叔父たちの墓を作ったのは末の叔父盛輝である.
 また既に述べたように,意図的ではないにせよ主祭神の面を旧宅に放置し探しに戻っていない.戦後最初の衆議院選挙に1人1党(日本民族党?)で立候補しているが,晩年に1人息子の盛也が家に帰ってみると,戦災で焼けて僅かに残っていたものを庭先で焼いており,残ったのは法華経1巻のみであったと語ってくれた.その盛也も妻に死なれ心臓病で急逝してしまったが,「父は一度も祖先のことを話さなかった.和男さんに面は保管して欲しい」と言った1,2年後であった.
 このような状況であったから,昭和6年(1931年)の第16回大祭礼には参加していない.
 少し脱線するが、祖母鉞子(としこ)は賎ヶ岳七本槍の平野権八末裔で水戸藩薙刀師範竹雄の三女である。皆書をよくし、竹雄の妹は幼年の徳川慶喜手習いの世話をしたという。そして五歳の時の書を礼に受けている。慶喜を剛健に育てるため、斉昭は子女に彼の世話をさせなかったと言われるが、5歳まではそのようでなかった事になる。長姉は藩の奥に勤め、次姉は茨城県大津市黒澤家に嫁したが、その子息たちは知識人のよしみで、天心・大観の面倒を見ている(天心の晩酌用ワイングラスを形見として所持している)。若い日(明治四十年頃?)、伯母を訪ねた父武雄は天心の舟釣りの伴をした。大哲人とは知らなかったようであるが。

 <父の哲学・思い立ったら行動せよ>
 昭和六年の大祭礼当時は、我々は大分県佐賀関町に住んでいた.父武雄が若く久原鉱業(後の日本鉱業)日立鉱山に勤め,東北大学付属専門部冶金学科に明治43年頃学び,生涯冶金技師として新鋭の精錬所で働いていたからである.陽性前向きの好人物でありまた優れた技師で,社史をみると戦前の特許の半数は父のものである.筆者も父の残した「日本屈指の資源,複雑硫化鉱の熔融塩電解による全金属完全分離法」の実用化を継ぐべく,大学卒業後の10年弱は乾式精錬の基礎研究を行ったが父の仕事は充分に世界水準であった.
 僻地の神官末子で苦学しつつ身を立て一流の科学技術者になれたのには,「祖先の志」に励まされたからだと父の死後悟った.表現を改めて示すと,一生に一度遭えないような73年ごとであろうとも「世にない事であろうと,善いと思ったならば,実行したら良い」ということだと思う.「思い立ったなら行動せよ」が父の哲学であり,祖先の教えであったと痛烈に思う.これは科学精神そのものともいえる。筆者もこの四十年一途に地球救済に役立つ新原発を追究し、国際機関や米露仏などが支持しつつある(参照:"原発革命"[文春新書])が、祖先の思いが大きな励みであった。

 ここに解き明かしてきた古川家を中心とした1200年の歴史が,厳密に真実かどうかは知らない.しかし,これだけ整然とした明年第17回の大祭礼にいたるまで1200年の歴史的ドラマが,簡単に虚構として構築できるものであろうか.今後一層の調査研究を期待したい.世界に冠たる活きた史実としてさらに広く認知され,人類の智慧の一部となって欲しいものである.
                    (以上)

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